2022年3月14日から始まった宮崎県延岡市の空き家再生プロジェクト「HYPHENATION in NOBEOKA」。
今回は、このプロジェクトの幕開けに際し行われた対談の様子をお届けいたします。
対談の第1部は「延岡の未来をつくるPRIDE」と題しまして、延岡市長と、延岡市出身の元競泳選手・松田丈志氏に延岡での思い出や、延岡という街が持つ強さ・魅力、そして、今の延岡から未来の延岡の展望まで語っていただきました。
▼ HYPHENATION in NOBEOKA の詳細はこちら▼
https://seminar.aki-katsu.co.jp/hyphenation_in_nobeoka
■登壇者プロフィール
延岡市長 読谷山洋司
宮崎県延岡市出身。平成 30 年2月、第27 代延岡市長に就任。令和4 年2 月からは、第28 代延岡市長として2期目を迎える。
オリンピックメダリスト 元競泳選手 松田丈志
宮崎県延岡市出身。アテネ大会より4大会連続五輪出場。競技活動から引退後はスポーツの普及、改革に関わりながらスポーツジャーナリストとして執筆、講演、コメンテーターなど幅広いジャンルで活動している。
延岡市出身者にとっての「延岡という街」
ーまずはおふたりにとっての延岡の印象をお聞かせください。松田さんにとって延岡とはどのような場所ですか?
松田)僕にとって延岡は、帰ってきてエネルギーを充電する場所ですね。
延岡でエネルギーを貯めるのが僕にとって本当に大事なことなんだなと感じたのがコロナ禍でした。東京で不自由があるわけではないんだけれども、2年ほどゆっくり帰省ができていないときにストレスが溜まってきている感覚があって。今回もこの仕事があって2日間ほど滞在していますが、いるだけで元気になってきちゃいますね。また東京に帰ったら仕事頑張ろう!という気持ちに、今まさになってきています。
ーご実家に滞在されているということですが、どのように過ごしていらっしゃいますか?
松田)朝から家の周りを散歩をしたりしています。僕の実家は田舎の方にあるんですけど、何もないのがいいところで、太陽の光と風と鳥の鳴き声だけがあるんですね。それだけで元気が出てくるなと感じています。
■地元延岡での活動と、延岡の人の応援が原動力に
ー学生時代から延岡で練習に励まれたということですが、当時の出来事で印象に残っていることはありますか?
松田)初めて出た国際大会で惨敗をしたあとですかね。まだ高校生だったので延岡にいたんですけど、自分たちでは頑張ってるつもりなのにどうしてこんなに実力が違うのか分からなかったんです。そこで、久世コーチ(松田丈志さんのコーチを勤めた久世由美子さん)が、「実際に行って一緒に練習してみよう」という提案をしてくれて、オーストラリアで現地の選手たちと練習をしました。そうしたらやっぱり、僕たちが延岡で頑張っていたやり方とは全然違うやり方で追い込んだトレーニングをやってたんですよね。それを見たときに、自分は頑張ってると思ってたけども、まだまだ努力が足りなくて、また、もしかしたらもっといい練習の方法があるんじゃないか、というのを学んで課題が見えました。課題は可能性なので、その可能性が見えてきたのが高校3年生の時ですね。
ー延岡での仲間と一緒に壁を乗り越えてきたんですね。
松田)はい。その後、大学を出た後にスイマーとして活動していくためにはスポンサーが必要で。その時にスポンサーも延岡創業の企業についていただいたり、あとは応援スポンサー会っていうのを作っていただいて、延岡の皆さんにサポートいただいたりしました。地元の方々に支えられて世界で戦うことができたと感じています。
■遮るもののない海がチャレンジャー精神を育む
ー市長も松田さんと同様に延岡で生まれ育ったとお聞きしました。
市長)私は生まれてから15歳まで延岡で暮らしていて、その後旭化成に勤めていた父の転勤で東京に引っ越しました。現在は延岡市内に住んでいます。
ー市長は延岡にどのような印象をお持ちですか?
市長)延岡は太平洋に面していますので、目の前に遮るもののない海が広がっています。大げさな言い方ですが、「限界はないんだ、前に前にいくらでも進めるんだ」というような大らかな気持ちを育んでくれる自然がある街だと感じていますね。
また、松田さんのような世界に挑戦する先駆者が多く、「頑張ってればきっと頑張りは形になるんだ、成果が出るんだ」と信じて頑張ってこられた方々が今も暮らしてらっしゃる町かなと思います。
世界に挑戦する土壌がある街、延岡
■旭化成の街 旭化成から世界へ、延岡から世界へ
ー延岡といえば旭化成のお膝元ですが、それは市民性に影響しているのでしょうか?
市長)旭化成の町ということで、延岡からは旭化成の世界一の技術が数多く生まれています。旭化成の関係者にお聞きすると、20年近く「こんなものはものにならないからやめろ。赤字だらけじゃないか」と言われた技術がたくさんあったそうです。本社の方からは「赤字だからやめろ」と。しかし、現場の人たちは「いや、絶対にものになる」と続けて、その結果素晴らしい功績となった技術がたくさんあり、その一例がノーベル化学賞を取られた吉野彰さんのリチウムイオン電池です。まさに今の脱炭素の時代になくてはならない技術がここ延岡から生まれました。
私はよく高校生たちに「いつもすれ違っているおじさんは、実はすごい人かもよ。ノーベル賞を取る人かもよ。」と言っているのですが、延岡はそんな街であると思います。
また松田さんをはじめとして、延岡で頑張っていると世界で活躍できるという実績がある街なので、是非若い人もそのスピリッツを受け継いでほしいですし、そんな市民生のある街でもあると感じています。
■地元出身のチャレンジャーが次なる挑戦者を生む
ー松田さんのご親族にも旭化成にお勤めの方がいらっしゃるそうですね?
松田)祖父が旭化成に務めていましたし、父親も関連企業です。延岡で働いている人は7〜8割は関連企業に勤めていると言われるくらいで、我々は世界に通用する企業である旭化成の大きな恩恵を受けているんですね。
ー延岡は「世界に通用する力を」という考えが根付いている街なんですね。
松田)市長がおっしゃっていた「延岡から世界へ」という部分が僕の選手としてのテーマでもあったんです。トップ選手になれば海外やナショナルトレーニングセンターでトレーニングはできるんですけど、あくまで軸足を延岡において、ここから世界に挑戦していくというマインドは自分の中では常にありました。そして、それを作ってくれたのはこの街だと思うんですよね。
僕が子供のころに、バルセロナオリンピックのあと、谷口浩美さんと、銀メダルを獲得された森下(広一)さんが延岡でパレードをされたんですよね。僕、それを見に来てるんです。握手もしてもらっていて、自分の街にはオリンピックで活躍している選手がいっぱいいるんだ!ということに感動しました。自分のコーチも水泳選手として旭化成に入って僕を指導してくださっていたので、延岡を通じて世界を感じられたことが「自分もいつか世界に」というマインドに繋がっていたと思いますし、それは本当にありがたかったなと思っています。
ーそして松田さんは実際にその目標を叶えられたんですね。
松田)はい。実際3回くらいここでパレードしましたからね(笑)
時々勉強会や講演会に呼んでいただくことがあるんですけど、その際にはメダルを持っていって来てくださった方々に「どうぞ、触ってかけて写真撮ってください」と言っています。そういった機会に触れることで、子供も大人も夢を描ければいいなと思いますね。
■「どうしてもこれがやりたい」そんな信念を貫く人が育つ街
ー松田さんのような方を輩出しているという意味で、やはり延岡は未来の希望を携えた街なんですね。
市長)そうあらねばならないと思っています。現代社会では、どうせこんなもんだ、とか、あんまり無理するのはかっこよくない、みっともない、みたいな風潮があったり、頑張る人に対してちょっと批評することが大人のものの見方であるという風潮があるように感じています。
しかし延岡は「私はこれがやりたいんだ、人が何と言おうとやるんだ」といった人たちが出てきた街なんです。そういう人たちが各分野で出ていくことが、延岡の延岡らしさを発揮した上での地域の、地方の創生ということじゃないかなと思うんですよね。
そういった信念を貫いてきた先輩或いは後輩がいるんだ、そういう人が育った町なんだということをもう一回見つめなおす。そこが延岡のエネルギーをもう一度溢れさせるスタート台になると思います。今日もその機会になればと思いながら、こうして出席させていただいています。
松田)僕自身もまさに選手としてそれをやりたいと思ってやってきましたし、そこにやりがいを感じていた部分もありました。世界各地に足を運んで、情報を仕入れて学びの機会を作る。それをどんどん自分流に成熟させて、自分のものにしていくのがここ延岡、という形でやってきました。
今はどこにいても情報が取り入れられる世界になりましたし、これからの時代、延岡という町の魅力の恩恵を存分にもらいながら、世界に向けて仕事をするという環境ができていくといいなと思っています。